【回想】学校が嫌いだった私。 後編
2013年2月20日 学校・勉強中学校で居場所がなかった私。
高校は、自分のことを知る者がほとんどいないところへ行こうと思って、家から遠い、海の近くにある高校を選びました。
山奥から海沿いへ。今思えば、極端にも程があります。
そんな理由で選んだ学校も理解しがたい不思議ルールがありました。
体育祭での応援団員を選ぶ際のルールに、「運動部員は立候補してはならない」というのがそれです。
文化部に所属するような生徒は運動や体育会系の活動が苦手なのが大多数と思います。それを避けて文化部を選んだのに、この仕打ち。唯一の例外は、写真部。自動的に撮影担当になるため。団は確か4つあって、それぞれだと、ものすごく倍率が低くなります。当選の確率、3割から4割。すべてかわしたものの、当たっていたらと思うと、ぞっとします。
まあ、これ以外では高校時代は悪くありませんでした。
あとがき。
こんな学生時代を送ってきた私がほんの一時とは言え教育界にいたのはおかしなことです。もう見切りをつけましたが、それでもその一時は教育界の改革を試みたのです。現場に絶望して逃げ出しましたが。
・
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回想の過程でずいぶんと長年忘れていたいろいろなことを思い出しました。学生生活ではワーストが中学校時代で、次いで高校時代です。今でも、中学校時代の者たちとは交流がありません。高校時代の友人たちとは同窓会に参加するなどしてときどき会います。
今でもよく学校の夢を見ます。そのほとんどは悪夢です。この時期に失敗すると後々たいへんだね〜、と他人事のようなことを言って結びとします。
おわり。
高校は、自分のことを知る者がほとんどいないところへ行こうと思って、家から遠い、海の近くにある高校を選びました。
山奥から海沿いへ。今思えば、極端にも程があります。
そんな理由で選んだ学校も理解しがたい不思議ルールがありました。
体育祭での応援団員を選ぶ際のルールに、「運動部員は立候補してはならない」というのがそれです。
文化部に所属するような生徒は運動や体育会系の活動が苦手なのが大多数と思います。それを避けて文化部を選んだのに、この仕打ち。唯一の例外は、写真部。自動的に撮影担当になるため。団は確か4つあって、それぞれだと、ものすごく倍率が低くなります。当選の確率、3割から4割。すべてかわしたものの、当たっていたらと思うと、ぞっとします。
まあ、これ以外では高校時代は悪くありませんでした。
あとがき。
こんな学生時代を送ってきた私がほんの一時とは言え教育界にいたのはおかしなことです。もう見切りをつけましたが、それでもその一時は教育界の改革を試みたのです。現場に絶望して逃げ出しましたが。
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回想の過程でずいぶんと長年忘れていたいろいろなことを思い出しました。学生生活ではワーストが中学校時代で、次いで高校時代です。今でも、中学校時代の者たちとは交流がありません。高校時代の友人たちとは同窓会に参加するなどしてときどき会います。
今でもよく学校の夢を見ます。そのほとんどは悪夢です。この時期に失敗すると後々たいへんだね〜、と他人事のようなことを言って結びとします。
おわり。
【回想】学校が嫌いだった私。 中編
2013年2月19日 学校・勉強さて、だいぶ本線から横道にそれてしまいました。
学校が嫌い・・というか、教師や学校の体質に疑問を感じ始めたのは、中学校に上がってからでした。
私が通ったのは、山奥にある小さな中学校でした。中学校生活で一番イヤだったのが、部活動の時間でした。加入は任意ということでしたが、実際は強制でした。生徒数の少ない学校だったので、部の種類は少なく、私が入りたいと思う部はありませんでした。(皮肉なことに、当時よりも生徒数が少なくなった現在、部の数は増えたと聞きました。その新しくできた部こそ、私が当時望んでいた部でした。)
教師に対して疑問を持ち始めたのは、上記の部活動のことがひとつです。良く言えば個性的、悪く言えば協調性のなかった私は部内では浮いた存在でした。耐え切れなくなって、担任に部活動の意義を尋ねたところ、返ってきたのは「根性をつけるため」 納得はできませんでした。
もうひとつは、ある一人の教師との一件からです。社会科担当だったこのA先生は、普段はどの生徒にも公平で、明るく楽しい授業をすることで人気の教師でした。A先生と私との間に問題が発生したのは、歴史見解の違いがはっきりした現代史に入ってからでした。当時、近所に勉強熱心な祖父が住んでいて、よく遊びに行っていました。
あるとき、いつものように祖父が私に「今、学校で何を勉強しているのか?」と尋ねてきました。私は「太平洋戦争を習っているよ。」と答えました。そのときの祖父の顔と言葉を今でもはっきり覚えています。苦虫を噛み潰したような顔で「太平洋戦争じゃない、大東亜戦争だ。」と吐き捨てるように言いました。
そうか、と思って、次の定期考査でちょうどその名称を問う設問があったので、私は迷うことなく祖父に教えてもらった通りに「大東亜戦争」と書きました。返ってきた答案用紙は件の箇所がグチャグチャになっていました。そのA先生は当然、「大東亜戦争」という名称を知っていたのでしょう。マルを書きかけて消してバツを書きかけてサンカク(一部減点)にして・・相当悩んだのが見て取れました(結局、サンカクでした)。A先生は誰も知らないような知識を持っている生徒には一目置くところがあったので、当時の私は悪いことをしたとは思いもせず、逆にその後明らかに私を避けるようになったのが不思議でした。今は分かります。A先生は・・・だったのだ、と。
以上のような理由で、クラスと部活とで浮いていた私には、中学校は居心地の悪い場所でした。
学校が嫌い・・というか、教師や学校の体質に疑問を感じ始めたのは、中学校に上がってからでした。
私が通ったのは、山奥にある小さな中学校でした。中学校生活で一番イヤだったのが、部活動の時間でした。加入は任意ということでしたが、実際は強制でした。生徒数の少ない学校だったので、部の種類は少なく、私が入りたいと思う部はありませんでした。(皮肉なことに、当時よりも生徒数が少なくなった現在、部の数は増えたと聞きました。その新しくできた部こそ、私が当時望んでいた部でした。)
教師に対して疑問を持ち始めたのは、上記の部活動のことがひとつです。良く言えば個性的、悪く言えば協調性のなかった私は部内では浮いた存在でした。耐え切れなくなって、担任に部活動の意義を尋ねたところ、返ってきたのは「根性をつけるため」 納得はできませんでした。
もうひとつは、ある一人の教師との一件からです。社会科担当だったこのA先生は、普段はどの生徒にも公平で、明るく楽しい授業をすることで人気の教師でした。A先生と私との間に問題が発生したのは、歴史見解の違いがはっきりした現代史に入ってからでした。当時、近所に勉強熱心な祖父が住んでいて、よく遊びに行っていました。
あるとき、いつものように祖父が私に「今、学校で何を勉強しているのか?」と尋ねてきました。私は「太平洋戦争を習っているよ。」と答えました。そのときの祖父の顔と言葉を今でもはっきり覚えています。苦虫を噛み潰したような顔で「太平洋戦争じゃない、大東亜戦争だ。」と吐き捨てるように言いました。
そうか、と思って、次の定期考査でちょうどその名称を問う設問があったので、私は迷うことなく祖父に教えてもらった通りに「大東亜戦争」と書きました。返ってきた答案用紙は件の箇所がグチャグチャになっていました。そのA先生は当然、「大東亜戦争」という名称を知っていたのでしょう。マルを書きかけて消してバツを書きかけてサンカク(一部減点)にして・・相当悩んだのが見て取れました(結局、サンカクでした)。A先生は誰も知らないような知識を持っている生徒には一目置くところがあったので、当時の私は悪いことをしたとは思いもせず、逆にその後明らかに私を避けるようになったのが不思議でした。今は分かります。A先生は・・・だったのだ、と。
以上のような理由で、クラスと部活とで浮いていた私には、中学校は居心地の悪い場所でした。
【回想】学校が嫌いだった私。 前編
2013年2月19日 学校・勉強年を取ると昔のことばかり思い出す、または考えるようになるといいます。たぶん、それにかかったと思われます。良い機会(?)なので、そのことを綴ります。
タイトルからは学校全般が嫌いだったように受け取れますが、小学生の頃はそうではありませんでした。あまりにも早く登校しすぎて、玄関の鍵を開けてくれる用務員さんや担任の先生から「こんなに早く学校に来るな!」と言われたことは一度や二度ではなかった覚えがあるからです。
この当時、現在では社会問題になっている体罰・・・というか、児童・生徒を殴る教師はいましたが、それほど問題にはなっていませんでした。私も何度か殴られたことがありますが、そこには殴られるような理由がありました。
私の考えとしては、「言ってわからない者には叩いて教えるしかない。」なので、体罰を全否定はしません。ただ、今現在で問題になっているのは、現場の教師の「体罰」とされるものが、理由のはっきりしない理不尽なものだからだと思っています。中には、児童・生徒に手をあげることでストレス解消にしているような「キチガイ教師」もいるように思います。
実は、私は元・教育現場にいた人間です。本当のことを言えば、かつて身を置いていた教育界を悪くは言いたくありません。それでも、昨今のニュースを耳にするたびにそう思われて仕方がないのです。
長くなりそうなので、次回に続きます。
タイトルからは学校全般が嫌いだったように受け取れますが、小学生の頃はそうではありませんでした。あまりにも早く登校しすぎて、玄関の鍵を開けてくれる用務員さんや担任の先生から「こんなに早く学校に来るな!」と言われたことは一度や二度ではなかった覚えがあるからです。
この当時、現在では社会問題になっている体罰・・・というか、児童・生徒を殴る教師はいましたが、それほど問題にはなっていませんでした。私も何度か殴られたことがありますが、そこには殴られるような理由がありました。
私の考えとしては、「言ってわからない者には叩いて教えるしかない。」なので、体罰を全否定はしません。ただ、今現在で問題になっているのは、現場の教師の「体罰」とされるものが、理由のはっきりしない理不尽なものだからだと思っています。中には、児童・生徒に手をあげることでストレス解消にしているような「キチガイ教師」もいるように思います。
実は、私は元・教育現場にいた人間です。本当のことを言えば、かつて身を置いていた教育界を悪くは言いたくありません。それでも、昨今のニュースを耳にするたびにそう思われて仕方がないのです。
長くなりそうなので、次回に続きます。